UIの行き着く先とジレンマ
スマホを触っていていつも思うのが、このUI、つまりユーザーインターフェースは過渡期ものだ、ということです。
やりたいことを考えてから、探してアイコンをポチ、ってどう考えても手間です。
今現在もUIはFlatなりMaterialなり、Fluentなり、各社がしのぎを削って改良を重ねているわけですが、結局のところ探す、迷う手間をいかに最小化すること注力しているだけであり、誤解を恐れずにいえば、五十歩百歩といえます。
じゃあ、そんなに偉そうなことを言うおまえは、究極のUIをどう思ってるんだ!
私が思う究極のUI、それは人間です。具体的なイメージとしては、店員さん。
あいまいさに対応し、柔軟性に富み、合わせることを強いず、むしろこちらに合わせてくれる。 人類が始まってから常に存在し、そして人類が滅亡するまで存在し続けるUIであり、赤ちゃんからおじーちゃん、おばーちゃんまで迷うことなく使えます。
つまり、
スマホの中に人間と同等以上の知性を備えたAIが存在すればいい!
ということです。(マジか
AIはIT系大手各社が力を入れている分野ですし、AIがよりすぐれたAIを再生産し、技術が人間の手に負える範囲を超えていくシンギュラリティも近そうですし、それほど夢見がちな話でもないかな、と思っています。
ただし、そこに問題が。
本当に人間は、究極のUIなのか?
話しかけるのに躊躇することはないか?
聞くことが恥ずかしかったりすることはないか?
だから結局ネットでポチるんではないか?
哲学的ゾンビって概念があります。
自分を自分であると感じる自我が存在しない、存在のことです。(ややこしい)
はっきり言ってしまえば、自分以外の他人は哲学的ゾンビかもしれません。つまりロボット的ななにかなのかもしれません。 他人の自我に直接触れることは不可能なので、これは証明も否定もできない問題です。
逆にいうと、人間と同等以上の知性を備えたAIが生まれ、そのAIが自我を主張した時、それが仮のものだと否定することは困難です。なぜならば人間は自分以外の自我には触れえないのだから。
要するに、AI相手であっても、話しかけるのに躊躇する状況は生まれえるということです。
困った。。
でもとにかく、こちらが羞恥を感じるほどのAIが生まれてから考えることにしますか。